
山崎貴、俺は信じてたぜ!
『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』を観終わった僕は、手の平がグレンラガンのドリルのように回っています!
という冗談は抜きにしても、『ユア・ストーリー』の評判を聞いていたので、やはり幾許かの不安はあった。
しかし、実際に観ると、その不安が消えてしまうほど面白く、上映後には安心感に包まれていた。
その理由として、本作の終戦直後という舞台と、キャッチコピーになった「生きて、抗え」が噛み合っていると感じたからだ。
生きることが罪になった戦時下
戦争末期、大戸島の基地に、主人公・敷島が乗る零戦が着陸したところから物語は始まる。

敷島は飛行機が故障したというが、本当は特攻隊から逃げ出したのだ。
その日の夜、基地はゴジラの襲撃を受ける。
敷島は整備兵の橘から零戦でゴジラを撃つよう頼まれるが、恐怖で撃つことができなかった。
結果、敷島と橘以外は全滅し、敷島は橘から罵倒されてしまう。
終戦を迎え、東京に帰ってきた敷島は、空襲で息子を失った隣人の澄子から「どのツラ下げて帰ってきたんだ」という感じで、ここでも罵倒されてしまう。

この時の澄子役・安藤サクラさんの呪詛を唱えるような演技が素晴らしかった!
当時は(特に特攻隊は)国のために命を投げ出すことが当たり前で、まるで「生きることが罪」みたいな空気が強かったという。
それもあるだろうが、橘も澄子も、敷島が生きていることへの怒りよりも、大切な人を失った悲しみや怒りを敷島にぶつけているように見えた。
命が粗末にされていた時代の中でも、どこかで命は大切だという考えは残っていて、それが後の展開にも繋がっていく。
ゴジラとの戦い=生きるための戦い
敷島は典子や明子、秋津らとの出会いで生活に余裕が生まれ、生きる希望を掴もうとする。
しかし、それを狙ったかのようにゴジラが襲来し、敷島は再び絶望に叩き落とされていく。

上げてから落とされるたびに「ゴジ泣き」する神木きゅんが可哀想になる
僕はゴジラが敷島の戦争がまだ終わっていないと暗示する存在だと感じた。
「まだお前の戦争は終わっていない、お前だけのうのうと生きているなんて許されない」
そう言わんばかりに、ゴジラという死神は、敷島から生きる力を奪っていった。
終盤に入ると、敷島をはじめとするかつての兵士たちが、ゴジラを倒すために集結する。

ここで注目したいのが作戦内容だ。
ゴジラの放射熱線を受ける囮役として無人の艦船が使われており、できるだけ犠牲者を出さない作戦となっている。
これは、特攻隊など誰かが死ぬことを前提にした大戦時から大きく異なる。
終戦直前の物語前半と終戦直後の物語後半で、人々の命に対する価値観が変化したのだ。

作戦立案者の野田が発した「(先の戦争で)命を粗末にしすぎた」が心に刺さる
本作のゴジラとの戦いは、勝つための戦いではなく、生きるための戦いである。
「そんなのゴジラシリーズなら当たり前だろ!」って話かもしれないが、そのドラマを終戦直後という舞台で描くなら新しい切り口だと思う。
その切り口は、戦争を経験した敷島たちだからこそ、説得力があるし胸熱になるのだ。
最後に
ぶっちゃけた話、話の伏線や展開は予想できるので、あっと驚く大どんでん返しがあるような作品ではない。
逆に言えば、予想通りに運んでくれたおかげで、変な雑音や脱線がなく、楽しむことができた。
ゴジラに詳しくない人でも、安心してオススメできる作品である。
(文・西森圭人)
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